記者

やっぱり書くことがない。

それだけ変わり映えがなくて、刺激のない毎日を送っているということです。故に前回の流れを汲んで、なぜ新聞記者を目指したのかについて書きます。あ、今回から一人称は俺でいきます。どうでもいいですね。はい。


議員インターンシップを終えた後、俺はUNNという新聞サークルに入りました。結果的に、ここで得た経験が新聞記者になる直接的な原因です。

このサークルに入った理由は「何かしてないと、俺はまた堕落するな。記者に興味あるし新聞部にでも入ろうか」という程度の考えでした。この時点では、本気で記者になろうとは思ってませんでしたね。あくまで興味本位。

そもそもUNNに入る動機となった、「記者に対する興味」が何処から来たのかは分かりません。この問題に関しては他人どころか、自分自身も納得させられる答えを持ってない。強いて言うなら前回の日記に書いたとおり公共性の高い仕事に魅かれて、それが俺の中で新聞記者だっただけです。漠然とした興味やら、多少の憧れもあったと思う。ただ、その程度。


だから、入部してからも「いい記事書けるようになりてぇ」「早く一人前の部員になりてぇ」とは思ってたけど、その延長線上に新聞記者を明確に描き出していたかと言えば、そうでもないです。意識はしてたけど、まだ本気じゃなかった。


取材、記事執筆、校正、入稿、再入稿。週報、ミーティング。締め切り、壊れかけたPCとの格闘、編集室での連泊。ネットカフェのシャワー、吉野家豚丼。コーヒー、コーヒー、煙草、コーヒー、煙草。半ケツ。


俺がこんな生活を続けたのは記者になりたかったからではなく、あくまでサークルのメンツが面白かったということと、部員が少ないのでやらざるを得なかったからです。


ただ、それだけの理由では続けられない。



『僕の大学は学友会が解散してて、学生同士の繋がりが希薄でした!同じ学生が頑張る姿を学生新聞を通して伝え、少しでも学生と大学を活性化させたいと思って活動してました!』



俺は新聞社の面接で、新聞部で活動していた理由をこんな風に言ってました。本音と建前で言えば、建前に近い。しかし、多少なりともこういう考えを持っていたことも事実です。やっぱり読者や、一本一本の記事が持つ意味を極力意識するようにはしてました。こじ付けでも何でもいいから、意味を見出さなければ虚しくなる。

俺がどういう意識で、新聞を作っていたか。あるいは記者というものを考えていたか。

例えば、地域の活性化に取り組む学生、環境問題に取り組む学生、ボランティアに勤しむ学生。サークルを頑張る学生、体育会で頑張る学生。なんでもいい。モラトリアムに甘んじてもいい4年間で、何かを頑張る学生の姿や想いを記事にして伝えることで、読んでくれた人が何かを感じてくれて、その人が何かを始めるきっかけになれば…そういう意識は確かに持ってました。

JR福知山線脱線事故の取材にしても、生きたくても生きられなかった学生がいること、夢や希望を持ちつつも二十歳で命を奪われた学生がいること、一生を車椅子で送ることを余儀なくされた学生がいること、自分達が如何に恵まれた存在であるかということを知って欲しかったわけです。「もうちょっと真剣に生きようぜ」と。ちょっと暑苦しいかもしれませんけど。少なくともそういう悲しみがあることは、同じ学生として知っておかなければいけないと思うんです。




しかし、これはあくまで理想で、現実的には難しい。

例えば現在、声高らかに地球温暖化だ、環境問題だ、エコだとマスコミは騒いでるけど、どんだけの人間が行動してんねんと。少なくとも俺は何もやってねぇ。言葉で人を動かすのはそんなに簡単なことじゃない。最終的に情報が生かされるか殺されるかも、受信者によって決まります。僕は新聞の一読者として今まで多くの情報を殺してきたし、同時に記者として虚しさも味わってきた。学生新聞レベルやけど。

ジョン・レノンがどれだけ慈愛に満ちた歌を歌い続けても戦争がなくならなかったように、記者もけっこう無力です。それは歴史が証明している。毎日、証明している。

もちろん新聞記者によって何かが変わることも多いと思う。記事一本で政権をひっくり返したり、新しい法律を作る流れを生み出したり、一人の人間をスターダムにのし上げたり、あるいは失墜させたり。これも歴史が証明している。


ただ俺が学生新聞で細々とやっている中では、記者の力を感じることはありませんでした。大袈裟に言えば記者という職業に対して懐疑的な部分もありました。不毛な職業だと。そういうモノがそこまで本気になれない理由だったのかもしれませんね。そういう気持ちがあったから、「記者になりたい」と公言することも少なかったんだと思います。




去年の10月の日曜日。前日のJR福知山線脱線事故シンポジウムの取材に参加していた後輩から聞いた話。その話を聞いて、俺は本気で記者になろうと思いました。

俺の脱線事故記事を読んで事故のシンポジウムに参加を決めてくれた人がいたという、それだけの話。


たったそれだけなんだけど、救われたような気がした。あの取材は他の取材とは色んな意味で異なる。葛藤とか罪悪感もあったわけです。その話を聞いた時は、涙が出そうでした。「やっててよかった」と。純粋に「記者っていいなぁ」とも思った。確かに記者は無力な部分もあるけど、それは決して不毛ということではない、と俺は思えたのです。


共同通信で書けば毎日、約3000万人に記事を配信することになるらしい。記事を読んだ人の1000人に1人しか変わらなくても、3000万人なら30000人が変わる。たかが学生新聞の記者でも1人の人間を動かすことができたんだから、やっぱりプロの記者が持つ力や可能性は大きい。


ポジティブなニュースも、ネガティブなニュースも、何処でどんな価値を生み出すか分からない。自分にはまったく意味があるように思われないベタ記事だって、ニュースの受け手によって、ニュースの価値や意義は変わる。無駄なニュースなんかない。事実があって、俺はそれを書き、誰かがそれを読む。そう、確かに誰かが読んでくれてる。それだけでいい。

自分が生涯追うことになるテーマにしても、1回書いて社会が変わらなければ、100回書けばいい。それは継続性と一貫性に秀でた新聞という媒体じゃないと不可能です。自分の書いた記事で、一つでも社会がよくなったら最高やな、と。あの10月の日曜日の感動をもう一度味わいたい。だから、俺は新聞記者になろうと思ったのです。


まぁ、記者に対する気持ちはこんな所では書ききれません。書ききれるわけがねぇよ。直接聞きに来い。誰も聞きたくないって?というか最後まで読んでくれた人、お疲れ様でした。

次からはもうちょい、面白いの書きます。

できるだけ、書きます。